『北京バイオリン』コンクールのその先に見えたもの

コンクールより育ててくれた父への気持ちがつよかった。人を蹴落としてすすむことが疑うべくもない当たりまえの行動規範か。もしそうだとしたら、なにより父が大事にしていたバイオリンが、思ってもいない形で、再度目の前に現れた時、コンクールをキャンセルすることはなかっただろう。
音楽は何のためか。大会に勝つことは確かに父がよろこぶことだった。大会に勝つこともその意味で大事ではあったが、しかし、もっとその先に大事なものが見えたとき、それを表現する、表現したくていてもたってもいられないのが芸術の核心だろう。
拍手する聴衆とか、マリさんとか前の先生を最後の場面にもってこなくても、いいものになったと思う。
むしろ大都会の巨大な駅の雑踏の、その孤独のなかで、育ての父と子との琴線のふれあいを描いたほうが、もっともっと泣かせたかもしれない。
十数年前、子にとっては捨てられたという孤独、そして父にとっては誰も自分のことでせいいっぱいの都会の孤独なかで、まさに、父と子は出会ったのだから。

大団円をお涙頂戴的にしようとして、ちょっと引いてしまったような気がする。